「Fester」

西荻窪時代

ということで色々と計画を立てて、まずは風呂無しアパートを借りた。そして、近所のフィットネスクラブに入会した。タイで毎日泳いでたから肺活量がえらいことになってるからね。維持しないと。試しに千駄ヶ谷の50Mプールで潜水でどこまで行けるか試したら泳ぎ切れた。でも潜水ダメだったみたいで監視員に結構叱られた。

さて午前はフィットネスクラブできっちりと運動して、午後は一日おきに2時間スタジオに入って自主練することにした。スタジオ練習では発声とギター練習をかなり真剣にやった。歌は最初のうちはヘタだった。ヘタになってた。なのでがんばって研究して練習した。

行かない日は曲作り。MTRを買って夜は編集作業とギター練習。高校の同級生でバイトも一緒にやっていたヤツにドラムで入ってもらった。

こうやって書くと突拍子もないけど、当時はなんの違和感もなく毎日を過ごしてた。今思うと不思議。客観的にこの人はやっぱりちょっとおかしな人なのかな?って普通に思う。

この頃は作曲が天職かも、ぐらいに思ってた。外国で掴んだイメージを元にどんどん曲が出てきた。でも作詞は致命的にダメだった。ドラムに色々アドバイスをもらったけど、どうしても身が入らないし、無理やり書いた歌詞は思い入れもなく思い出しもしない。あと、なぜかバンド活動にはあんまり気が乗らなくてドラムを悲しませてたと思う。

作った楽曲をテープに入れてヤマハなんちゃらとかに送ったことがあった。「全体的に古臭い」と書いてあった。曲調はファンクとかソウルとかに近くて、当時はまだ日本でFREE SOULが出たてとかそんな感じ。世はジュリアナ全盛期ってかー。古いってかー、と。

Festerの誕生

この生活には収入という重要なファクターが欠けていて、長くは続かないものだった。(といいつつ1年ぐらい?もっとかな?)ということで色々考えてTシャツをデザインして売ろうかなと。正直この時はちょっと投げやりになってた。仕事一筋は体によくないかな?みたいな。以前一緒にヨーロッパに行った奴が雑貨屋で働いてて、Tシャツとか雑貨を作ってて、あーじゃーオレもTシャツとか作ろーかなー。みたいなスタート。

でもせっかくだから自分のブランドを作りたいなと。というわけで構想を考え始めて、悩んで悩んでFesterという名前を決めて色々アイデアを練った。Tシャツのデザインも増やして行った。

最初はその雑貨屋で売れるかな?なんて思ってたけどそんな甘いわけもなくイキナリ行き詰まった。そんな時なんとなく届いた葉書。専門学校時代によく一緒に遊んだクラブ仲間から「代官山でオフィス開いたから遊びに来てね。」

ってことで行ってみたら、「そのTシャツ、ネットで売ろう」ということになり、サイトは?これから作ると。んじゃ待つわ。つってもなかなかできないので、じゃぁ手伝え、みたいな話に。

へーぱそこんでつくるのー?へーこれがぱそこんねー。何?貸すから家で勉強しろ?あーそー、んーわかったよー。

持ち帰ってまじまじ見やるも、どこをどうしたらいいのか分からん。「たぶん電源ってあるよね?」どこにも見当たらん。出っ張ってる部分がないぞ?3日ぐらい経っても全然わかんないので持って行って聞いた。もうそんな所からのスタート。電源入ってからも、ですくとっぷ?そふと?いちいちわからん。

そのうちに「webの仕事受ける?」

来たよこの流れ。なんだろうね。なんか抗えないものを感じるよ。もう。あ、なんの話?まぁこっちの話。

こうしてクライアントには絶対言えない、パソコン触ってまもない人間がいきなりサイト制作を受けたことでweb制作とTシャツのデザインをするFesterが誕生した。

以上がざっと齢20代後半ぐらいの話。

Fester Teeeとweb制作

初期のFesterの仕事はTシャツ販売となんとなく受けてしまったwebサイト制作との2枚看板。ほどなく通販サイトも完成して、雑貨屋やってた友達も合流した。

NET通販サイトを立ち上げると雑誌に取り上げられたりしてちょっと話題になり、変な営業も来たりした。「なんとか市場」とかいう名前で、ウチが立ち上げた通販サイトに参加しませんか?と。あのう、ウチが先に立ち上げてるんですけど?え?お金取るんですか?え?高っ!すいません、そんなおかしなことやってて大丈夫ですか?サイト名も変だし。

なんて余裕ぶっこいて追い返したらその後、市場を取っ払って社名を短くして、あっという間にビッグネームになられまして。不思議な気分になった。

Tシャツの方は順調に売れ出して、ほどなく宝島社の4つの雑誌の折り込み通販特集への定期出品が決まった。その雑誌通販ではたくさんんブランドが競争していたけど、いつも1〜2位を争っていた感じだったはず。勝手に「裏原系」とか呼ばれていた。

後に調子に乗ってグッズも作り出し、代官山に店を出した。あ、そういえばソファとかも作った。豹柄の。でもこの店はたしか1年ぐらいで潰れた。たぶん、イケてるのに安い!って感じでバカっぽかったのと、テナントが貧乏くさかったのが原因だと思う。そういえばショップオープン時のプレスリリースの文章がものすごくふざけてて、色んな人にものすごく怒られた。

お店の方は合流した相棒にほぼ任せ、私はwebの方に注力していって。仕事がどんどん膨大になっていった。一方で二人で通販サイト上でweb連載記事を書いていた。まぁ二人っていっても本当はほぼ私が一人で書いてたけど。これがちょっと面白いということでファンもついた。

この頃はfesterの公式サイトもオープンしてて、ふざけたことばっかり載せてたら、広告業界の人にものすごく怒られた。でもがんばって引っ込めなかった。festerのグッズが盗作されてて、文句言ったら逆ギレされたんでサイトで(先方の盗作商品写真にハエを描くなど)バカにしたら相手が弁護士を立ててきた。怖かったけどがんばってこれも引っ込めなかった。

そしてFesterのメイン業務になったweb制作が、私の現在のライフワークにつながる大きな事業になった。PC webからケータイコンテンツ、スマホコンテンツと、いつも早い段階でシフトしていき、スタッフも増えて会社化した。

勝ち取ったコンペ、覚えたスキル、とんでもないエピソードやどえらい事件。数え上げればキリがない。というか支障があって言えないことだらけなので割愛。色んな仕事をしてきたけど、この仕事が1番長く、1番ハードだった。人生最高、80時間以上連続で起きてた記録を立てたのもこの頃。

さて。

幼少から今までを、もののついでに振り返ってみたらとんでもない長さになってしまった。

最初に書きたかったことがあって、それを書くための前座のつもりだったのに。

でもせっかくなので、せめてこの長い前振りを、日本酒にハマったところまでは続けたい。

Tシャツ作ろっかなぁ〜とパソコンのスイッチを探し始めてから5〜6年経ったあたりで結婚とかもできちゃって。今思うとたった5〜6年だけど、こんなに長く同じ場所で長期休暇をとらずに働いたことはなかった。なので感覚的には10年以上経った気がしてる。

ようやく日本酒

そんで結婚したての頃だったと思う。急に立て続けに日本酒に出会う機会があって。

私に暴力ばっかりふるっていた兄が黙ってくれた越の景虎純大吟雫酒。お世話になってるライターさんがお祝いにくれた緑川では珍しい生酒。嫁のおばあちゃんがくれた立山の純大吟。嫁が出張土産で買ってきてくれた福島の末廣、玄宰。

これらをほぼ同時期にがががっと飲むことができて、この津波には呑み込まれる以外なかったということです。

あまりに長い前置きの割に日本酒との出会いの話があまりに淡白。

まぁでも出会ってからの日本酒の話はブログで書いてたので、同じこと書くつもりもないので割愛。

次回、本当に書きたかったことを書いて足跡シリーズは終了。


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