プロダクトデザイン
デザインの専門学校を自称首席で、誰がなんと言おうが首席で卒業し、同時に全卒業生中唯一、就職斡旋0という栄誉に輝いた私。(担任に就職希望を伝えたら「バカヤロウ」で終わらせられた)
希望してたわりには進路についてはあまり心配というか自覚もなく。ついでにアルバイトならいつでもあるという時代も手伝って、危機感はゼロだった。
そんな中、実は学校の講師陣は何人か業界で現役で働いている人が臨時講師という形で入っていて、その中の一人が私をバイトとして雇うと手を挙げてくれた。
まぁでも蓋を開けると、何をやっているのかよくわかんない人で、社員などおらず二人っきりだった。そこでなぜか、全くなぜだかわからないがプロダクトデザインの仕事をいくつかやった。振り返れば新卒の初仕事なのに私一人で先方に出向き最終納品まで全部ひとりでやりきった。
ここで、精密造形や塑像やABS樹脂、基盤との絡みなどのノウハウを学んで、みんな知ってるあの企業のパッケージや部品を製作した。
造形作家のアシスタントとディスプレイデザイン
ほどなくこのよくわかんない人の会社が無くなった。その後、これまた専門学校時代の他の臨時講師の先生の紹介で(そういえばこの先生は自分の授業を勝手に自習にして私と二人で近くの喫茶店でサボっちゃうようなパンチのきいた人だった)、そんな彼女がいい仕事先があるということでそこに移ることになった。なんとまた造形作家さんのアシスタント。
今度の人は一人で山奥でやってる方で、作品の他に都心のデパートのウィンドウディスプレイの製作も受けていた。これがなかなかハードなお仕事で、いろいろ学んだ。壁ぐらいの大きさのキャンパスに絵を描いたり、彫刻や彫塑もやった。いろんな素材を使って大規模な作り物とかもした。
木工は勿論、石膏、砂、ガラス、スチロール、粘土、など。溶接はやらずじまいだった。あと、夏休みの美術館の美術教室の講師みたいなこともやった。
あと、この仕事は季節労働的な所もあったのでもう一個の仕事として、結婚式場に常駐する木工と内装の業者の仕事もしていた。これは好きな時にやれたので長期にわたって続いた。木工の他に経師やカッティングシートや切り文字やアクリル加工なども経験した。
さて、ディスプレイの仕事もそこそここなすようになると、また病気が始まった。ついでにこの造形作家さんのアシスタントをやってる間、いろんな人から造形作家になれなれとずっとそそのかされていたのでちょっといい気にもなっていた。
ということでじゃぁ作家になるならなおさら、海外で見聞を広めなきゃね、と。いや本当はもっとドロドロとした心持ちもあったんだけど、とにかく行くことにした。
結婚式場仕事で仲良くなった仲間を誘ったらなんと行くというので男二人の長期海外旅行、いわゆるバックパックというやつ。
で、まぁ行って、ヨーロッパ十数ヵ国回ったかな?これもなかなか思い出がいっぱいあるんだけど、サクッと割愛。
帰ってきて、造形作家さんの方にまたお世話になって。サクッとその作家さんとケンカしてクビになって。クビになる直前は地方の美術館の常設展示の製作をやった。長野の歴史のなんちゃらだったかな?その後しばらく結婚式場の大工仕事を続けて、ちょっと経つとすぐにまた発病して、今度はオーストラリアに行ってみようとなった。
行く前になんとなく専門学校時代のクラス会みたいなのがあって、その時クラスメイトの女の子に「・・・また行くの?今度はどこに?・・・男なんだね・・・。」なんか紫煙を燻らせてアンニュイに言われて去っていった。
実はこの方、当時ある勧誘活動に熱心で「オマエも誘われるぞー」と言われてて。その前置きがあってのこの発言だったので、すんごい印象に残ってる。さ、誘われないんかい、みたいな。
そんでサクッとオーストラリアに行って、その後バリ島にそれぞれ一月ずつぐらい過ごした。帰りに寄ったシンガポールのご飯がめちゃ旨かった。マーライオンは予定通り*がっかりした。
*マーライオンは世界3大がっかりのひとつ
住宅の施工設計と管理
旅行から帰ってきてほどなく、いいタイミングで、最初に世話になったよくわかんない先生から電話があって、いい仕事があると。聞けば住宅建築の施工設計だと。先生なんでこれがいい仕事なんでしょう?まぁ行けや。どこすか?なんか埼玉と群馬の境目辺りだって。
いややっぱこの先生変ですわ。
でまぁ一応行ってみて話聞くと、住宅金融公庫の仕様書がいきなり出てきて、意匠図面を元に、この仕様に則って施工図面を描いてくださいとのこと。
いや出来ませんよ。いやそれは困ると。いやいや私デザイナーですし。いやもうあの先生に話通ってますしと。いやいやいやいや。
って事で急ぎ東京に戻り先生を訪ねると「うーんできると思うなー。できるよーうん。ていうかもう受けちゃったし。仕様書?読めばわかるよたぶん。」
先生、会社無くなったんすよね?でここは先生の自宅すか?なんか、知らぬ間にご結婚されました?奥の部屋に赤ちゃんいます?
「そうなんだよねー。だから今皿洗いのバイトしててー。こないだコンビニの店員とケンカしちゃったー。というわけで頑張って。もうお金もらうの決まってるから断れないんだよねー。」
どうやら破綻しているようだった。あと「こいつさては図面描けねーな?」と、ちょっと思った。
でもそんな状況だから逆に持ち前の闘争心に火がついてしまい「これやり切ったらすごいかなー」なんて。いや、ウソついた。公庫の仕様書が目の前にあってただただ執着してしまった。
とはいえ流石に全く分からないのでそれからのひと月ほど人生最大レベルで脳を回転させた。これからタッグを組む大工の棟梁を訪ね教えを請いに長野まで訪ねた。あとはとにかく勉強。
私を受け入れた施工会社サイドも何やらおかしいと気づいたようで、もはや私をバックアップするしかないと、近くにホテルを用意してくれて、ホテルにドラフターを用意してくれた。これで会社のドラフターと合わせて24時間いけるね!と。
後から思うと思いっきり監禁なんだけど、なんかこの時はネジが飛んでいてむしろラッキーぐらいに思ってしまった。ご飯も出たし。毎日16時間ぐらい図面を引いていた気がする。
そしてなんとか処女作を棟上げて、高所恐怖症のくせに棟梁と一緒に梁に登って記念撮影。あの写真どっかいってしまった。
そのまま埼玉と群馬の県境の会社に結局半年以上(あれ?一年近かったっけ?)居つくことになる。この間色々あった。本当にいろいろあった。
件の先生は私が結果を出したと言うことで施工会社からもっと金を取ろうとして会社と揉めてしまい、私に撤退命令を出した。でもこの状況で私も会社も聞くわけない。だってこの人何もしてないし。あんまりメチャクチャなのでこの人とはこれっきりになった。
この施工会社は私を得たことで本格事業展開を決めて、私を面接官にして新卒を2名とって私の下につけた。そして私にいつまでもホテルじゃぁということで2LDKのマンションと通勤用の車を用意してくれた。
全部で一軒家を数十は建てただろうか?あとコンドミニアムとか低階層高級マンションとかもかなりあって、戸数でいうと100はゆうに超えていた。自分が図面ひいた家たちは今も建ってるんだろうか?全棟公庫の基準よりだいぶ材を増やしてるから丈夫だとは思うんだけど。
一つ思い出。
施工図面というのは一軒家でいうと、木材が10tトラック1台分くらいあって、それぞれの木材に寸法をつけていく。100枚以上の平面図に全部で数千くらいの寸法が入っている。
馬車馬のように図面を書いていた成熟期に入ると、この数千の寸法が全部頭の中に入っていて、家に帰って眠りながら寸法チェックをした。今思うとこれは眠っていることになってなかったのかな?黒い背景に緑色の線が3Dで展開して(ありがちな絵面)ポリゴンのように全方位回る夢を見た。
こうやって何度も寸法間違いを発見して、朝起きて出社してそこをチェックするとバッチリ夢の通り間違っていて修正できた。なんてことがしょっちゅうあって、これはさすがに神懸かっていたなぁと振り返る。
大工の棟梁とこの会社の人たちとも、とても仲良くなった。気のいいおじさんばかりだった。私が辞める時にみんな寄せ書きを書いてくれた。後に関西の支社長を訪ねた時は姫路城に連れて行ってくれたりご馳走してくれたりした。特に会社の主任さんとはお互い分からないことだらけで最初のうちはたくさんケンカしたけど、その後すごく仲良くなって家に呼んでくれたりした。
施主の若い夫婦にとっても感謝されたこともあった。念願のマイホームだもんな。そりゃうれしいだろうよ。よーしおじさん柱一本増やしちゃうね。これで家が丈夫になるよ〜。
また、外部の一級建築士とガッツリ揉めたこともあった。やることやらずにハンコだけ押して金さえくれればあとは知らんとか、無能すぎる。なんだそのチョビヒゲは。あんたのピークは資格を取った時だ。あんたは出てこなくていい。100円やるから帰んなさい。
たくさんのいい思い出。このまま居座るのも悪くないかな。なんて思うはずもなかった。だからこそ自分は行かなければいけない。どこってそりゃまぁガイコクだよね。
ってな感じで20代の前半はずっと定期的に海外に行かなければならない病を患っていた。後任(おじさん)を育成して、用意してくれたマンションを整理して。
今度はタイに行ったんだけど、もはやなぜタイになったのか、どんなふうに計画を立てたのかほとんど覚えていない。で、設計の仕事は猛烈な激務で心も体も結構痛んでいたので、タイでのんびりと過ごした。1〜2ヶ月ぐらいだったかな?
さて帰ってきてどうしたかと言うととりあえずガイコクに行くのはそろそろ打ち止めかな?なんて思ったのは覚えている。