東京とロンドン
上京してすぐに思ったのは新宿汚いなーということ。当時は都庁もなかった。あと、電車に乗った時に見える無数の三角屋根。北海道はほとんど洋風の造りなので、おー日本の景色だーみたいになった。道民あるある。
さて肝心の学校生活はというとデザインへの執着が並々ならぬものではあったけど、入ってみるとなんとなく”普通”としか感じなくてあっというまに飽きた。なんという親不孝、なんという無責任。
ほどなく他の気持ちが持ち上がりそればかり考えるようになる。
それ、というのはちょっと時代を遡って、いとこにガットギターをもらってからギターを始めて、高校に入ってから遅ればせながらバンドの片隅にいたりもして。まぁ音楽に対しての自分の感覚の話なんだけど。
歌を歌うということも実は随分と気になっていた。留萌の親族はみんな歌が上手くて、自分もうまれつき上手かった。小さい頃母が、あんたはずいぶん歌が上手いからと、近所ののど自慢にエントリーされたことがあった。それは中止になっちゃったけど、なぜだか妙にあの時のことは思い出深い。
※関連するエピソードとして。専門学校では同級生同士で飲みに行ったりカラオケに行く機会が多くなるわけだけど、カラオケで歌う段になると異常に緊張してしまい、みんなの注目を浴びて笑われることが常だった。自分的には自分の歌は失敗するわけにはいかない大切なもので一回一回が試される真剣勝負のように感じていた。というわけでいつも一生懸命歌っていたので、よく私の歌を聴いて女の子が感動して泣いていたのが小さな自慢だった。
でもまぁこの頃は正直自分の気持ちを自分で全然理解してない感覚がいつもあった。
話を戻すと、東京に出てきて1年ぐらいで「ギター持って渡英したい」なんて考えるようになってしまった。当たり前にギターなんてそんなに練習もしてないし、歌も思い込みだけで実際にはなにも練習していない。
今思うとあまりに無謀、というか、無計画な渡英を決行してしまう。学校を休学して、大して弾けないのにアイバニーズの安いギター一本抱えていきなりロンドンに旅立った。今思うと武勇伝と呼ぶには程遠く、フツーに頭悪いよね?的な。
ロンドンでの生活は高校生活と同様とても楽しかったけどザックリと割愛。
さて帰ってきて復学して。ロンドンでなんならミュージシャンにでもなったろうかと思っていたその事自体も忘れ去っていて。さて、デザインやりましょうかねということで。一体どういう思考回路をしていたんだろう?
最終学年になり、みんな就職活動をしていたんだけど、自分だけ全くそんなことはせず。考えもせず。ロンドンで覚えてきたナイトクラビングをそのまま東京でも続けて、夜な夜なクラブに入り浸っていた。
デザイン学校時代は二つの思い出がある。ひとつは企業実習っていう2週間会社に勤める授業と、もうひとつは卒業制作。
デザイン学校:企業研修
企業研修の方は行き先は先生が決めるんだけど、担任の先生が美術系の人で、「まぁ毎年こういうヤツ一人ぐらいいて、いい所があるんでそこに押し込むから」ということで決まったのが、造形作家先生のアトリエ。後から知ったけど非常に有名な先生でテレビ局の表玄関とかにある大きなモニュメントとかそういうのを作る大先生の工房。
私を担当する人が出てきて、ガキは適当になんか作ってろということでほっとかれたので、仕方が無いから適当になんか作った。いろんな素材や工作機械がたくさんあったので作り方や使い方を教わりながら。その内、大先生がちょっと見せてみろというので見せたらなんか色々とアドバイスをもらうようになって、へーへーと話半分に聞いてたら、担当さんにこっそり呼び出されて、先生が作品を見てくれてしかもアドバイスくれるなんて前代未聞なんだから!と、ちょっと叱られた。
あと、その作品の途中経過を学校の美術系の先生に見せることがあって。この先生も美術界では立派な画家さんでもあり。
で、その先生が私の作品をみて興奮して、ちょっと貸せと。いやいやダメでしょと言ったのにいいから貸せ!と強引に持ち帰ってしまい。おいおい明日から実習どうすんだよと。
そしたら次の日。返してやるから学校に取りに来いと。行ったら私の作品にガッツリと着彩してやがって。なにをしてくれてんねん!と。
そしたら、この俺がわざわざ色を着けてやったんだぞ!この俺が!とおっしゃる。
いやいや知るかよ先生よー。なんだ?この緑?チョーダセーし。ていうかオレの作品をなに勝手に汚してんの?と。
軽〜くケンカになるも、さすがに先生に分がないので、工房に持って行ってきれいに消すから!ということで話はまとまったが、先生はいつまでもものすごくものすごくもったいない〜と嘆いていた。
いやだからオレの作品だから!そんな言うんなら自分で好きなの作って好きに色着ければいいじゃん!
と言ったら、「俺は絵描きなの!立体はやらないの!」とキレていた。
この2週間の研修は楽しかった。でもおかげで卒業後就職するという選択肢がきれいになくなってしまった。2クラス100人近くいたっけ?みんな就職斡旋受けてるのに自分だけ学校からの提案は0だった。なんか高校の時と似てる。いや高校の時よりひどい。
デザイン学校:卒業制作
卒業制作については幼稚園の時の制作に取り掛かる、あのモードのスイッチが入ってしまった。
グループでの共同制作と個人作品の二重構成とのことで、ひとりで勝手にというわけにもいかず、仕方なく色々と動く内に思い通りにいかなくて、結果かなり熱くなってしまった。
制作材料の搬入経路のことで学校側とケンカになったり、展示スペースのことで学校側とケンカになったり、設備のことで学校側とケンカになったり。後半はなんやかんやささいなことで学校側とケンカになった。
クラスメイトは私を(たぶん)嫌うこともなく暖かく見守ってくれた(気がした)のでとりあえず有り難かったけど、色々揉めすぎて展示スペースが他のグループの3倍以上を奪い取って、他のグループの展示スペースが極端にせまくなっちゃったのでとても申し訳なく思っている。
おかげで思う存分入れ込んで制作することができて、幼稚園の時には叶わなかった、好きなだけ構想を練って気の済むまで作ることができた。グループ展示はほぼ私の好きにやることができた。本当は協力しないとだめなんだろうけど。
個人作品の方は、件の美術系の先生が彫塑をやってる私のところにやってきて、ここはこうだよ〜!と偉そうにアドバイスをくれて、まぁ大変な修正だったけど、素直にズバッと粘土を潰してやり直したりした。
おかげで作品はグループの総合最優秀を取ったけど、個人の最優秀は取れなかった。なんだよ〜また闇の勢力かよ〜と冗談めいて思ったけど、団体を取れたのでそれほど悔しくはなかった。
卒業制作の打ち上げの飲み会で先生が寄ってきて「個人取れなくてもよかったでしょ?団体を取ることに意味があったんだよね?」と言ってきたので、なんでそんなこと言うのかな?とちょっと気になった。
あと「お前あん時俺の言うこと聞いて、ぶあ〜って粘土切ったろ?あん時嬉しかったなぁ〜!あのお前が!素直に俺のいうことを!ね!!ねぇ、あん時どんな気分だった?ねぇ、どんな気分だった?」
酔ってたのかな。うざかった。
その後、私の作品はテレビに出演するということになってテレビ局に運ばれた。それはいいけど、なんで私は呼ばれないの?と。誰も出ないならともかく、他のやつがテレビに出ることになったのはなんで?と件の先生に聞くとまた「いやぁ〜お前はいいでしょ!テレビはほら、作者っていうか、学校の代表者を出したいし!」
この時の先生のセリフ。団体取って個人取れなかった時に先生がいきなり変なこと言ってきた時。あの時と今のとが瞬間的にシンクロした。「個人最優秀もテレビ出演も、調整しやがったな。」と思ってなんとなく聞いてみたら、なんとなく認めてきた。
高校の時といい今といい、私が学校がらみで一番を取ると、いつも闇の勢力が作用しておかしなことが起こるらしい。
※ちなみにこのテレビ収録時、こっそりテレビ局の出演者の控え室に仲間と忍び込んで、積んであった弁当を一個盗み食いして一個持ち帰ってやった。
そうこうしているうちに、今度学長が全校生徒を集めて卒業制作の報告会をやると、ついては最優秀を取った生徒とその担任のレポートを学長がみんなの前で読むから原稿を書いてこいということに。
おーそれいいじゃない。ということで、この学校が如何にダメか、学長批判も交えて、具体的にガッツリ書いてやった。どうせ就職斡旋もしてくれないしってことでなんの遠慮もなかった。
報告会当日。学長は作品がテレビに取り上げられたりなんだりで、この学年についてはすっかりご満悦だと聞いた。上機嫌でみんなよくやったとかなんとか言いつつ会は進み、学長がレポートを読み上げる段。担任のレポートではなんと私のことを褒めてくれていた。へー。
そして私のレポートの番。ちゃんと読めよ。2〜3行いい感じで読み進め・・・急に声が詰まり、黙った。その後、書いてもいないことを言い始めてさっさと切り上げた。あーあ。まぁでもこんなもんか。その後は急に機嫌悪くなっちゃった。
ところでテレビ局に行った私の作品はその後私の元に帰ってくることはなかった。先生に頼んでも、あれは資料として学校で預かることになったと言って返してくれなかった。急に没収されたので数枚しか写真も取っておらず、それが心残り。
というか件の先生が実はこっそり持ち帰って、ダサい緑色に着彩しやがったに違いないと思ってる。まぁでも色々世話になったお礼に見逃してあげることにした。
先生。エジプト絵画だかなんだか知らないけど、なんでもかんでも緑と茶色に塗りたくるのはちょっとピンとこないです。やっぱり。