中学1年の時に独特な先生が担任になった。
まぁ小学校高学年にはわりと普通のこども(イヤなガキではあったけど)に仕上がっていたのでパッと見平凡だったと思うけど、じわじわとこの独特な先生の目に留まることになる。
その独特な先生に教えられ、連れられ、たどり着いたのがよその学校の先生やよその生徒たちが集まって、合宿とかいろんな活動をする団体。
中一だから日教組とか、左翼活動とか、反戦運動とか、そんなものは全く理解していないので、言われるがまま乗せられるがままに結構熱中していた。
みっちり教わったのは要はディベート術とか、プレゼン術とか、クラスの統率術とかそんなこと。それなりに入れ込んだので、この団体の中でもトップレベルのリーダー格になった。
今で言うと、スウェーデンの環境活動家、グレタさんみたいな感じ。今の自分からはかけ離れすぎていて、どっちが本当の自分だろうと今でもおかしな感覚に時々囚われる。ちょっとしたトラウマになってるほどの恥ずかしい過去。
ちなみに大人になって自分の中で信条になっているのは「若い頃に左翼でない者は情熱が足りない、大人になっても左翼の者は知能が足りない」というチャーチルの言葉。この言葉が本当なら情熱も知能もあるみたいでよかったよかった。
この左翼思想のおかげで元々嫌われ気味だったのがはっきりと表出して、いやいや、とてもとても嫌われていた。小難しくて攻撃的で弁が立つ、最悪なキャラ(写真参照)。こんなことに熱中して学校の勉強など全くやらなかったので成績は急降下した。
中3になる頃にさすがに親が心配して、5歳年上の兄が行っていた塾に入れさせられた。
その塾はただひたすらに詰め込む勉強スタイルで、さぼると竹刀で頭をぶっ叩くルールがあった。なるほど小学校の頃、家でよく兄に竹刀でぶっ叩かれていたけどコレのオマージュか、と当時納得した。兄の竹刀はこの塾から卒業記念にもらったものらしく、心酔していたようだ。
面倒だったけど机にずっと向かっていることはそんなに苦じゃなく、そもそも勉強も気が向いていないだけで解らないわけではなかったので、ぐいぐいと成績が良くなった。いい時は全道模擬試験で一桁の成績を取るくらい。
とは言ってもそりゃたまにはサボるので頭を叩かれたこともあった。その時は気を失って気がつくと塾の応接室にいて、目の前には呼ばれてかけつけた親がいた。
さていよいよ高校受験の話になって。塾の先生は普通に札幌で一番いい学校を受けろと。ところが学校では、1〜2年の成績、特に体育とかの4教科が壊滅していたので内申点?ランク?というものがおそろしく低くて一番いい学校はたぶん足切りになると言われた。
塾の先生にその話を持っていくと、いやそれでも大丈夫っしょ!と言う。まぁ大丈夫なんだろうけどそんなギャンブルは嫌だなぁということで札幌で2~3番目くらいの学校にとりあえず決めた。
でもその後、さすがに自分の中でも真剣に考え始めて、怒りのようなものが湧いてきて。
たった一回の試験結果で行く学校が決められるのか?と。そんなん病弱だから風邪ひいたりとかするやん、お腹いたくなったりするやんと。そうなったら私立に行くの?そこまでの大ギャンブルなの?高校選びって。
今まで勉強してきたものを並べて、晴れてレベル分けされるっていうイベントなわけでしょ、高校選びは。そんなだったらいいわ。そんなふうに勝手に用意された一発勝負させられる舞台には乗れないわ。風邪ひいててもお腹痛くなって実力の半分も出せなくても受かる高校選ぶわ。という結論に達した。(以上北海道弁)
親は相当怒った。今思うと申し訳ないと思うけど、まぁ引き下がらなかった。ということで、一気に落として札幌で4~5番目?もうちょっと下?くらいの高校をチョイス。受験当日にカバンにけん玉を入れていったくらいリラックスして臨めた。さすがにカバンから出せなかったけど。(いや出したかも)
受験結果はそういう時代だったのか、闇の力が働いたのかなんなのか、なぜか発表前に母が電話で知った。今思うに極めて不思議だ。で、母が言うに1位で合格したと。母は大そう喜び、どうやら入学時に生徒代表で挨拶があると言う話に。
それなりに緊張したりしていたのに一向にそんな話にならなくて、入学式当日は普通に他の生徒が壇上で挨拶をした。1位じゃなかったのかな?なんて思っていたが、後日入学試験の成績詳細の紙が配られ、そこには1位と書いてあったのでまぁ確かに1位だったんだろう。じゃぁあの挨拶は一体なんだったんだろうか?母が事前に知ったことといい、どうも社会には闇の勢力があるのかもしれないのかな、と。
そんな闇の勢力のせいで、私の中の厭世感が一気に吹き出し、た訳でもないんだけど、中学時代の鬱憤もあって普通に高校デビューした。嬉しかったし楽しかった。友達に嫌われることもないし(たぶん)普通の高校生としてバカなことに熱中した。おかげさまで勉強には一切興味がいかなかった。
まぁこの高校1〜2年ぐらいは青春真っ只中ということで思い出たくさんだけどサクッと割愛するとして。
ひとつ大事なことを忘れていて、この学校はそこそこ進学校だったということ。3年にもなるとみんな受験対策で午後もたくさん授業があり、受験を考えていない私はほとんど午前授業みたいな感じになっていた。学校の成績は最初の1位から順調に下降して最後の方は私より下が数十人くらいしかいないほど。(逆によくビリじゃなかったなと。)
なので午後は近くの公園に行ったり、サケ科学館に行ったり、校舎の屋上に体育マットを持ち込んでまったりしてたり。ふと、留萌の時も小学校の時も今も、結構いつも一人だな〜自分、とよく思ってた。
そして東京のデザインの専門学校へと進むことになる。まぁこの進路はデザインがやりたいってのも勿論あったけど、なんせ家を出たいってのが最重要事項としてあったので、確実に進める無試験の学校を選んだ。
こんなめちゃくちゃな話を受け入れて、いかせてくれた親には本当に感謝しかない。