29/Dec/2002
中国の山水画、またその流れを汲む日本画にも大きな割合を占めている”空白”というもの。これは描かないことによってもまた、描くコトの目的を果たそうという意図があり、これは西洋の美術史とは全く異なる特徴なのです。
この説明を受けて美輪先生は
「空白を用意するということは見る側のことを信用しているということなんです。見る側自身のボキャブラリーや感受性によってその空白の部分を描いてもらおうという意志なんです。」
「かたや西洋の絵画は背景をすべて絵で埋め尽くしますでしょ?それはやっぱり見る側のことを信用してないということなんです。信用してないから全てに説明が必要になる。だからすべてを描ききるんです。そんな西洋文化にとっては中国や日本の文化というものは本当に驚きだったのでしょうね。」
テレビを見ていた私は思わずハッとしました。性格的にあまり目から鱗が落ちることもないのですがこの時はまさにそれでした。
これほど手短に、これほど簡単な言葉で説明できる美輪先生の素晴らしさにまた改めて感銘を受けました。そして「真理というものは子供にも分かる言葉で子供にもわかるように話さなければならない」というトルストイの言葉をまた思い出しました。
物事の本質をとらえるこのような話は他のコトにも通用するはずではないでしょうか。例えば音楽や、そして人生においてもきっと同じ事が言えるのだと思います。美輪先生もきっとそんな思いを込めているからこそ、このような表現をなさったのだと思うのです。