原体験「留萌の親戚たち」

母は9人兄弟。

祖父母の家の十数メートル隣に伯父の家がある。

そのすぐ隣に次兄の伯父の家がある。デカイ家。祖父母が死んだ後、なぜかその家にエレベーターが設置された。そのエレベーターはとてつもなく遅く、誰も使わなくなった。あと、この家はなかなかアレで、ある日世の中にはまだまだ知られていないタイミングでウォシュレットが設置された。

私のウォシュレット初体験はこの家。当時はセンサーなどなく、意味もわからずにスイッチを押したら顔面に水鉄砲が飛んできた。あの時のスウェーバックは多分プロボクサーレベルだったと思う。服がたすき掛けに濡れた。

さらにちょっと離れてまた伯父の家があり、その家には一個上の従兄弟がいたのでよく泊まりに行ってた。あんまり泊まりに行きすぎておじいちゃんによく怒られた。

ある日、いつものように泊まりに行って朝起きておじいちゃんの家に戻ろうとしたら、おじいちゃんの家が全焼していた。夜中じゅう消防車のサイレンで大騒ぎだったらしい。集落の中で朝まで寝ていたのは従兄弟と私の2人だけだったらしく、一度寝ると起きない伝説は今でも語り草になっている。

ちなみになぜ火事が起きたのかはよく覚えてないが、ジジババは無事で、まぁ木造平屋建てだったので、ものの一〜二週間で同じ建物が建っていた。ような気がする。

そして1〜2km先ぐらいに、畑やらガチョウの飼育場やらがある敷地にまた違う伯父が住んでいた。この伯父とは仲が良く今でも付き合いがある。(令和3年現在)

ある日、この家に遊びに行った時、夕方になんとなく一人で帰る事になって、帰りながらなんとなしにのんびりしてしまい、道中で一気に日が暮れた。

街灯など勿論ない。寒くはなかったが蛍のいる季節でも無く、あっという間に完全な闇に包まれた。30cm先も全く見えない。小さいながらもこれは遭難したと理解して、どうするか一生懸命に考えた。ここで一夜を明かそうとも思ったが、道路と路肩にぎっしり生えている草との差を手探りで感じながら進めば家の明かりが見えるところまでいける気がして、たった1kmの道のりを多分1時間くらいかけて這うようにして、明かりが見える所まで辿り着いた。遠くに明かりが見えても近くは真っ暗なので立って歩いて行くことはできないので、明かりが見えてからが長かった。この時は本当に死ぬかと思った。

次に、歩きでは遠い、車でちょっと行った所に伯母が住んでいた。後にこの伯母は札幌の我が家から徒歩3分の所に引っ越して来ている。この伯母は長女で母とは20歳離れている。この伯母の長男が私の母のイッコ下。

この伯母の長男、私から見た従兄弟は森田公一といい、作曲家をやっている。私が留萌にいた頃はとっくに東京に出ていたが、しょっちゅう留萌や札幌に来ていたのでよく会っていた。

親族に言わせると私はこの従兄弟に声や手先の器用さがよく似ていると言われていて、この従兄弟からギターをもらったのが始めたきっかけだったり。母は従兄弟と同じ声をしていて、従兄弟の歌マネが得意。私も母同様歌マネが出来る。

そして兄弟の下から二番目の我が家は札幌に住んでいて、もう1人の伯母、母の姉が札幌の隣の市に住んでいた。そして母の妹が当時函館に住んでいた。その後この一家は函館から札幌のこれまた家から車で5分くらいのところに引っ越してきている。

以上8人の兄弟。その兄弟の子供達がおじいちゃんから数えて3代目の集団でみんな仲が良く、割とよく集まる仲良し一族だった。3代目は十数人いて、その中で森田が1番上で私が1番下。

最初に、母は9人兄弟と言った。

足りない最後の1人は長兄で、私は会った事が無い。今、靖國神社に英霊として祀られている。母は戦時中に霞ヶ浦の予科練まで祖父祖母と3人でわざわざ留萌から会いに行ったらしい。おじいちゃんの家に真鍮製の戦闘機の模型と勲章が飾られていた。実はその戦闘機の模型、ちょっと壊した。幼かったからドンマイ。

そんな訳なので我が家は、というか私は、事あるごとに昇殿参拝したり、遊就館に行ったりしている。

以上ざっくりと母方の親族の話。留萌がらみの思い出話を書き始めるとキリがない。


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